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法が再び統合されるはず


今日は寒い 風が吹いているが、フリスタの練習しに海岸に行く気にならない。

シャーマンがいろいろな職業を兼ねていてそれが分化していったように

法も 宗教的な規律 社会契約による法律 私人間の契約など、いろいろな概念に対して一体の心理的状態でいることを約束したり、どうやって約束するのかということが法という意味であったのが、どんどん分化してそれぞれの役割のみを果たすようになってきた。

 各々のCMSの中でルールが作られている。現在は、メディアの種類によって言論が変化して特定の思想の人のみ集まっているからそのような状況になっていてそれでじゅうぶんだが 、それがより強い強制力を持ち始めた時に今現在行われているルールの決め方で良いのか分からない。今なら、ネット社会で他のところに逃げて仲間を見つければよいが、実体と密接に結びついた言論空間が構成される時、逃げ道がなくなる。その時にどうやって自分にとって都合の悪い状況から脱出するのか考えておく必要が有る。

 自治会みたいなところに、地方議会からより多くの権限が移譲されて、1000戸単位で小さな国を持つようなことが考えられる。その権限は現在の県よりも多少大きいレベルの権限で、特に司法権と立法権にかんしてそうである。が行政権は逆に縮小していると想定している。

 情報公開時代の自由刑とは、強制的に情報公開されるということだ。足かせを付けられ、世界携帯で撮られると常に不名誉だと思われる情報が常に先頭に出てきてしまうという状態だ。公開されていることは重要ではない その情報がフェイスブックのプロフィール画面にいつも逮捕歴がでるとかそういうことだ。

 森喜朗の売春逮捕歴も調べればわかることだが、プロフィールに記述されては居なかった。それが問題なのだ。そのようにして、情報公開刑を執行すると、その人の評判がガタ落ちになる場合がある。ある一定の公開基準を設けると、不良の悪さ自慢をフェイスブックのプロフィールに表示されるということになる。これが良いのか悪いのかを考える必要がある。
 
 常に個人に対してきついことをやらせて罰とするのか。社会に対して良いと思うことを基準にするとなにが違うのか考えてみる。いままでは、これが違うという考えを主にしていたが、もうすでに個人の教育と社会への貢献は自然と同じになってきた。それは刑務所に入れておく費用が高くなってきたからだ。1年刑務所に入れるのは、1流大学に入れるぐらいのお金がかかるから、ある人のいる場所見ている風景を全て公開するということと、刑務所に入れることをくらべれば、明らかに公開刑を執行することが費用がかからない。
 法律は固定しているから、それに違反してその事実を公表されても案外ダメージがない場合がある。その法律に引っ掛けて捕まえた場合には 額面とほんとにやばいことが違ってしまうので、額面のほうを公表すると武勇伝になって、評価が上がる場合がある。
これをどうにかするためには、もっと法律の機動力を挙げなければならない。すごい機動力のある法律というのは無理だけれども、100戸1000戸の地方自治が完成すれば、許容範囲内に収まるだろう。

 律法と法律 倫理とがだんだんくっついてくると、宗教的なレベルでばらばらになりやすくなる。
いままでは、政教分離で宗教の方はお金の力で愚民化政策を行なって束ねておいて、政治はその下でやってくれとなっていたが、こんどは、もっと日常生活と密接に関連してくるから、それらの境目がなくなってくる。

 今法律がうまく機能しなくなっている最大の原因は言葉がしっかりと固定されていないからだ。この先言葉の意味を固定しないで生活していく必要がある。いくら詳しい解説をして文字で文字を定義しようとしても、文字と宇宙をつなげるのは人間がやるのだ。それがなければ記号は無力である。言葉で言葉を定義するのは補助線であって、本当の法学の戦いはそこでやるのではない。自分の表現と他人との表現のぶつかり合いだ。文字だけでそれは終わらない。これからは文字を武器にして表現を行う人もそれのみに頼ることはできなくなってくる。僕は、これからの時代を席巻する文学の分野もなんとなく想像できるが、普通の人の文章表現能力が急激に上がってくるので超一流が生み出されるまでは少し間があく。一人生み出されれば後は加速度的に増えるだろうが・・・・。

 野生から罪と罰の意識領域まで言葉の栄養を運ぶ経路がある。それの全てを自覚すればこの先成長できるだろう。
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2012/04/14 16:58 | 司法試験COMMENT(0)TRACKBACK(1)  

法学の問題点

法律は増えると国家が死滅する。
国家ができた頃は法律はだいたい少ない。
法律が出来ればできるほど国家は、終焉に近づくが、今まで法学者は法律を作ることが仕事だった。
法学者は、法律によってみんなが幸せになるための学問だから、変な法律を廃止する理論も必要だけど、今のところは作るばかりでなくす理論ていうのは全くない。こういったことは考えなくてもいいんだ。とか。この法律が、実行されると生きはこういう動きを民衆がするはずだから、このようにするべきだというような書き方をした論文でいうのはない。

この事実をどううまく分類できるのかというのが、既存の法学のやり方であるが、そこに法律は必要ない。という判断を持ち込むと、馬鹿だと思われる。

俺は法学とはそういうものだと思っている。
判断基準は判断基準であったほうがいいけれども、それを毎回気分で使い分けるのを許さなければならない。
今の法律は、気分で運用されているので、理論である程度詰めても、結局無駄になってしまう。

”個人情報を中央集権的に管理する「共通番号制度」は、民主党政権が唱える「国民が主役」や「地域主権」の政権公約に矛盾しないのか。日本国憲法第13 条〔個人の尊重〕や第22 条〔転居移転の自由、移動の自由〕をはじめとした各種の自由権の侵害につながらないのか。”

また、此の様な文章が平気で出てきて、その解釈が一定になるような頭の使い方を要求されるし、そういう人間のほうが優れているとされるのが法律学の世界である。つまり、頭の硬いもの勝ちの世界です。

既存の判断基準と矛盾しないということが最優先されるので、何時まで経っても間違いが是正されない。というのが法律の世界です。理系になると、実験などで、ある程度どちらが正しいのかというのがわかりますが、法学では実験のしようがない。せいぜいするとしたら社会実験ぐらいなので、白黒はっきりつかない。

論理的に間違っているかどうかというのも、どういう主張をする人間が何人いるのかというので決定されることで決定されます。特に、司法試験は委員にどういった人間が入っているかでほとんど決定されます。

本人たちはそうではないと必死になっていっていますし、法律家は、訳のわからないことを言っている変な人間ではないといいますが、その研究態度と法学の成立過程自体が変なのだ。
例えて言うならば、ほとんどの教科書の最初から全て間違っている。

まず、現在の法律が全て良くなくて、それを何とか運用しながら、ぜんぜん違う今まで法律と言われないような法律を考えだして国を運用しようとしなければならないのに、今までの積み上げがありますとか、そんな事ばかり言っている。

前にもこのブログで 司法試験の話題で述べたが、ああいうことがありとあらゆる所で行われている原因は、ここにある。

世界人権宣言で、人権は生まれた時から与えられるといっているが、それが変だと戸塚宏が言っていた。
たしかにそう。能力に合わせて人権を勝ち取っていく。その先にお金とか、健康とかあると俺は思う。
そういう現象を補正するために建前として、世界人権宣言のような法律構成にしていて、いつしか本来の自然の姿に戻っても、人間がうまく暮らしていくように法律がなくなっていくようにするべきなんだが、そう考えて法律を考えている人は少ない。
中国の文献には、良い政治は収められていると感じないことというのならば、法律はなくなっていくべきだ。しかし、現在は増やすことばかり法学者が考えて、なくなった場合の効果を考えていない。

とにかく作るばかりである。
大体、客観説 主観説 消極説 積極説 XX条説っていうのが出てきて、それの折衷説っていうのが出てくる。それぐらいのものですが、そうやって説を増やして行って対応する。そして、その分類をする基礎には、主体という言葉がどういう意味をするのかとか、首魁という意味がどういういみなのかとか、責任とか行為とか結果とか法律では全く別の意味になる。それは、他の理系の学問では、このような意味を翻訳することは難しいので、この言葉は特別な使い方をしますと宣言しても大丈夫だが、法律では、その言葉が数式みたいに使われるから問題がある。

1の意味とかを研究するのが数学なら、例えば、”殺した”の意味を決定していくのが法律である。

1の意味が、時代によって頻繁に変わるということをよしとせずに、法律を作った時の定義とか、他の法律との兼ね合いとか、それを絶対に盛りこまなければいけないという今の法学のあり方。特に司法試験のカイトを書くときにそれを論拠にしsて書いても良いという風潮。絶対に破壊したい。


俺はこの現象を言葉の不法占拠と呼んでいる。プログラミング言語にしろ、いろいろな学問はいろいろな方向にこれを拡大する傾向にあり、それを理解しない人を馬鹿にする。それはよくない。他人が馬鹿に思えるのは、本当に馬鹿なのか、自分が言葉の不法占拠をしているせいなのかよく考える必要がある。

俺はそれを解決するSRNSという方法を考えついた。


2012/03/11 01:29 | 司法試験COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

なぜ中国の著作権侵害が必要か

他の国がやっていることは自分の悪い面の時がある。
神様が、日本は天国すぎるから、隣に韓国っを作っておいたというのも言い得て妙である。

ワルメンを反射する鏡みたいのがあって初めて天国は成立する。そういったものがないと改善できないのかもしれない。

日本人は遵法精神旺盛だと言っている一方で、著作権違反を中国で一番やらかしているのは日本人である。
日本では著作権を守るべく、いろいろな組織が活動しているが、硬直していて、さっぱり公開が進まない。
どうにかしてこの状況を変えようにも話し合いが需要の5日ないのである。

それを暴力的に解決する流れの発露が、中国に行っての著作権侵害やり放題という実態である。
マグマが溜まって噴出したのが日本ではなくて中国だったということです。

そういった場所がなければ、法律の攻撃を交わしながら革命することはできないし、新種の反乱のやり方というのも一段と現実と乖離していくでしょう。
簡単に法律違反できる場所を作っておくことによって、細かい実態と法律の乖離を見つけることができます。


道交法だって、破り放題だからあの程度で住んでいるが、厳格守らせたら、でも活動や景観襲撃だって起きかねない。簡単に法律はやるれるからこそ存続するという面をお忘れなく。

2012/02/24 20:56 | 司法試験COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

選択問題

連帯保証人になってしまうと、借りている人がお金を持っていても自分に請求が着てしまう。
でも、自分に請求が来たときに、でもあの人お金持っていますよ。すぐ差し押さえできますよというのは認められるが、裁判上そういうのは認められない。

司法試験の問題文に、債務者がお金を持っているのに連帯保証人に金を返せといったときに、本人に差し押さえできる財産があるということができるか? という問題があったとする。

答えはバツ で できない。

なぜかというと、ただ玄関先でそういう主張をすることはできるが、法廷内でそういう主張をしても認められないからだ。

問題文の前提に、法律上許されているかではなく、口頭弁論で言って認められるかどうかを聞いているという前提がある。

これぐらいの前提なら、ほとんどの人はなんとなくわかるだろうけど、厳密に言えば成果はどちらでもいいということになる。
こんなものは序の口で、ほかにもいっぱい前提があり それを一つ一つ覚えていかなければならない。そんな前提を当然のように認めて話している人間は、かえって社会を混乱させていると思う・

2011/11/06 16:19 | 司法試験COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

やくざと法曹

司法試験と、実際に相手がいて攻撃防御がある問題とは少し違うので、今日は後者について書く。

日本の司法試験では。ひどい問題だと一行問題といって、何とかについて説明せよという、一見どう答えてもよさそうな問題があるが、そういう問題ほど、答えを丸暗記しておかなければいけないので、だんだん少なくなってきている。

しかし、アメリカの試験のように、何とかの法律関係において最も重要な論点が何かを答えてそれについて論じよとか、そういう回答方法についての指定がまったくない。いくら問題が長かろうが、何とかについて論じろと最後はこれで終わっている問題がほとんどである。

僕は、アメリカの指定でさえも自由すぎて、もっと固定しなければならないと考えるが、そのために既存の法曹が頭をやわらかくするコストが資本主義的観点から大きすぎると考えられているから、回答方法の固定化は行われないと考えている。

そんな問題ばかりやっていると、問題を人工的に先読みする能力ばかりが育って、自分よりも頭のいい人間にまったく対抗できなくなってしまう。

現在の考える力を養成するという問題の特徴というか、現在の試験方法から言って、新しいパターンでかかれた回答が、法律会で通用するかどうかを試験委員は測ることはできない。それは、試験する人は、今起こっていることを正しいとして、法律家をやってきた人たちばかりであるからです。そして、そういう人たちは、自分たちしか使いこなせないルールを使って、知らない人間に優越感を思えることで満足し、仕事を続け、他人からお金をもらっている。

だから、法律の解釈論はいくらでも批判できてしまうから、その欠陥だらけの法律論をそのまま書かなければ、法律の世界で認められないという派閥を作ってうまくお金を回している。

もし彼らを攻略しようとしたら、彼らの手に乗ることなく、かれらを支配しているルールそのものを変えてしまわなければならない。

裁判官の選び方や、資格制度などが急所になっている。

このような欠陥があるから、現在やくざがはびこっているのだと思う。
まず、法律というのは最低限の道徳みたいなものであるから、劇薬である。

普通の人間なら、法律が使えないときにやくざに頼らないのだが、一部の人間はそうする。
やくざは、法律が通用しない部分を担当しているから、法曹とは仲がよくなるのは当然で、双方が仲良くすればするほど、人間関係を整理するという今日角ビジネススタイルによって育っていく。

こんなに似たようなことをやっていてお互いのすみわけがきちんとできている職業で、国によってそれがなされているというのはほかにはないはず。

最近やくざをつぶしているが、案外弁護士に協力しなくなってきていることと、経済やくざが増えすぎて弁護士のやる領域を侵害してきているからつぶしにかかってきているのかなと思う。

日本が近代ユダヤ人にどんどん買われていかないのは、彼らの哲学では分析できないカントリーリスクを日本が抱えているからだと思う。

暖簾の信用力と社名の信用力は若干意味が違う感じがするが、名板という法律用語になってしまうと同義語になる。
オリンパスのことでもあったような創業家支配 創業家崇拝 元祖崇拝みたいなものはユダヤの哲学にはあまりないと思う。

モーセが大事なのは 神様と契約した張本人だから、それがなかったら自分たちの契約がなくなるとからこそ、それを伝えて証拠としている。

日本人の元祖崇拝というのは、ラーメンなどによく見られるようなもので、それがいろんな社会に拡大されていっているが、元祖は別に契約しているから大事なのではなくなんとなく崇拝しているだけだと思う。

原点にかえってとか、初心に戻るというのはリセットということだけど、アブラハムの世界でのリセットはハルマゲドンのみである。もう一回最初に戻ってがんばろうという安心感はそれにはない。

だから、日本の創業家支配というのは、愛社精神の生みの親でもあるし 腐敗の温床でもある。
アップルでスティーブジョブスが会社から離れたときに、従業員は作ってくれてありがとうとは思ったかもしれないが、これからは自分たちががんばるからあなたは関係ないよと思ったはずだ。しかし、日本人なら、あなたが作ったものをがんばって受け継ぎますといったはずだ。

では、そんなことを思う従業員ばかりの企業を株で買収しようというのは無理である。
リッツカールトンで従業員に給料が払えなくなったときに愛社精神でがんばったという話があるが、そういった哲学を日本人が持っているのは、アシュケナージ ユダヤからすると、相手を自分の文化に染めるにはかなり厄介な問題である。

だから、それらの文化と、契約の精神の摩擦を抑えるためのやくざという存在をぶち壊して すべてを日向にさらそうとしているのだと思う。
ごみを掃除して日向に出して コケを取り払うことはいいのかもしれないが、あまりにもこれをやりすぎてしまうと、コケの生えている美しさはなくなってしまう。日陰者が困るのである。

日本の法律というのは、どうも日陰者が生息できるように自分たちがうまく解釈してきたが、法律はあまりグニャグニャ変化するものではないので、画一化した貧乏人というなんともつまらない人間たちを創造してしまった。

一定の社会でぼちぼち成功するためには画一が必要であるが、成功していない人間には多様性の特権がある。それをほうりつをってにして奪ってきてそれが一段落しているのだろう。

アメリカを使って、うまく日本の日陰を日向に出してきた人間がいるが、今までは、日本が湿って腐ってきたところを日向に当ててきたから成功した。もっと日向に当たるようになれば、好気細菌のような資本主義者ばかりになって、日本の水分みたいなものを奪っていくだろう。

グローバルスタンダートというのは、ロケットに乗って太陽に近づくようなものだ そこにはそういった場所に日陰を作り出す能力の備わった人間しかいけない。日本人はそれがない代わりに、太陽がなくとも生きていける民族だと思っている。昼の太陽ではなく朝日ぐらいが日本人にとっては都合がいい。

日本の水分とは何か?
一人でいる文化やエロ文化など 隠して美しく見せる文化などであると思う。かといって、隠されたところが腐るのではなく 整理されながら隠す中途半端さがあるところがいい。

明るいところでバリバリがんばって、暗いところではひたすら休み その二つの世界を行ったりきたりしながらすごして、どこか別のところにいくのではなく、積み重ねるような選択とひらめく選択とをいったりきたりする。これが日本文化だと思っている。


法律に戻して考えれば、契約によってうまく金でなんでもできる社会になると思ったら、金を使い方法が法律以外によって定められる量が増えた。
日本の金が江戸時代に持っていた威力は深い人格レベルまで及んだが、その力は時代を追うごとにどんどん減少してしまった。そして、日本人は勝手に社会規範を書き換えるからどうもうまくいかない。戦争をして、仏教勢力を叩き潰して拝金主義に持っていったら、仏教部分が消滅して資本主義に適合した労使協調とかいう権力分立からして成り立たない方法で協力する。こうなってしまうと搾取する側とされる側を分けることができないのでうまく支配できない。次にはうまく格差が広がったが、今度は江戸時代に逆戻りしそうだから、もっと法律で縛ってせちがない世の中にしてみるかというのが今の現状であると思う。

これからはもっと金銭的に揺さぶりをかけられると思うが、自分のやりたいことをやって、法律を突破していくという方法がはやってくるはずだ。

2011/10/29 20:42 | 司法試験COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

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