プログラマーズ Live free ,Beyond limit 社会分析

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--/--/-- --:-- | スポンサー広告  

オナニーばっかりしているのは、性欲が知恵を動かすほど強くないからだ。

限界までやってしっかり休み、また限界までやる。
ヤる前はいろいろああしようこうしようと思うものだが、そんなふうにうまく行かず、休むときは、起きていた時にできるようになったことが当たり前になって定着するように、瞑想していくのがよろしい。
 旨を広げ呼吸が楽になったら、それにずっと注目してそれが当たり前になるまで十分楽しむ。それが当たり雨になって意識的集中して楽しむことがなくなったのなら、その習慣はていty句しているが、楽しむことを途中でやめてしまえばもう一度努力し無くてはならない。だから休むときは、起きて動いている時に得られた最高の状態を維持るるようにじっくりと休み続けることが必要で、中断しに来るありとあらゆる電話や来客などの障害を無視する必要がある。自分は今個々にある楽しさを楽しむために居るのだから、それに集中するべきだ。個々にある楽しさをつかむという感覚が、周りに合わせて動くということを学ばせてくれる。いろいろな物事にあわせていては、自分の表現する振動が強まっていかない。

 ありとあらゆる小宇宙は、固有の振動を持っており、それを思ったとおりに表現するのが個性だ。だから、それを作ることを諦めて周りに合わせるのは、創造という根源的な喜びを忘れる、非人間的行為だ。だから、休むときは自分のやりたいことがひたすら周りに広がって行くことによって、いくら周りからどんな振動が来ても受け入れることができる。休むっていうのは、自分の目的が良いか悪いかとかを思い悩むのではなく、自分の目標が実現していく流れに身を任せながら、自然に眠りに落ちることなんだと思っている。

僕は、プログラミングもするし、自然言語も書く。ウェブアプリを作るためには、プログラミングする必要があるが、しているからといって前進しているわけじゃない。何かをしていなければ、目的が達成されないなどと言えないと言い切れるかどうかが自分の精神を守れるかどうかだ。他人には努力していないように見えても、自分が今目標に向かって突き進む最も楽しい方法だと思うなら、試しながら変わっていけばよろしい。

 なんにも考えないことが良いというのではない。理性も本能も全て目標に向かって一直線につながって、槍のように伸びていっている現実を認識し続けるのだ。理性の働きも性欲も全て必要だ。この世への執着も全て肯定し、自らの願いがバラバラ担っている状態を自分で葛藤して、理論的整合性も、感情的整合性も全て持たせて存在していくことだ。

  ありとあらゆる憎しみは、その問題を解決しなけれが気がすまないという思い出あり、その状態に陥った人間を助けるための問題だから、その感情を押し殺し、その記憶を忘れることは、再びその状態に陥った時にもう一度居間と同じ勘定を持つ可能性があるということだ。だから絶対に忘れてはいけない。成長したから忘れたなどという言い訳も許されない。未熟な自分が解決できなければダメなのだ。その時の自分を観察して解決するのであって、今の自分が解決していても、全く問題解決にならない。恨みというのは過去の自分が今音自分に向かって送ってくれる光のようなものだから、それを感じることができるということは、困っている人を助けられる良い道具を作るための顧客調査ができるということだ。

俺も、何事もただ我慢すればいいと思っていた。筋肉痛を我慢して稽古すれば筋力がついて動けるようになるが、筋肉痛にならない動きを学習することはできない。それに、やりたいことをやれる筋力がつかないのは、日頃の過ごし方 座り方、歩き方が間違っているからだ。いつでも、正立八字立ちのように座って立ち、、キーボードも寄りかかって打たなければ手の筋力も自然につく。
 一度良い姿勢をとっても、疲れて添えrをやめようと思った時に、なぜそれをやめたjy様態が気持ちいいと思っているのかよく考えよう。それは、今元気がある場所とない場所に差があり、頭を支えて何かを見る意思があるから、なぜ見ることを体が拒否しているのか考えることをやめているので、理性で諦めてしまう理由が把握できない。俺は、その時は寝っ転がって考える力が復活するまで待つか、目の前の画面から目を外して遠くを見るか目をつぶるかして、辞めたくなった原因を探すことにしている。
 

 性欲がありすぎて、まともに考えることもできないと悩んでいる人は多いと思うが、俺に女はいないいのはなぜかと考え続けて解決した。
 俺は、自分の取り組んでいる課題が今の生物にとって最も優先sなれるべき課題だから、そのためには、女という師b源も無限に手に入らねければおかしいが、なんでてにはいらないかと考え続けた。
 結局、性欲というのは、自分のエネルギーの一つであり、理性的な判断と直結すると、センスがよくなるので、姿勢を良くして、クンダリーニヨガとかにある、ダンテス・ダイジの本にも書いてある、やると危ない瞑想法で頭と下腹部を直結させ、その間でエネルギーを回してバカにならないように、どんなソフトウェアを作りたいのか?使っている人間がどのような生活をしているのか?ということを常に文字や絵にして表現して、だれでも見ることができるように公開し続けている。

 悪魔的とされてあまり手を付ける人がいないが、スナッフフィルムやイラクでの戦闘、日本の児童虐待の話しなど、いくらでもむごたらしいものは転がっている。大周天や小周天といった、ぐるぐる体の中で気を操作する練習法はなんで気持ち悪くなってしまう人が多いのかというと、悪魔的存在と他人から言われると、ほんとうに悪魔だと思ってしまい、それは切り捨てた上で、自分だけ不老長寿になるとかを考えるから、自分の作るものが生み出す楽しさのバリエーションが少なくなってしまう。相互不理解から生まれるそういった現象は、自分の理解力の限界を見つけるいい題材なのだから、それを自分の創造物に取り入れなければ、より完全なものが作れない。自分の中でイメージを回すのではなくて、自分の嫌いなものの存在を認めた上で、それを全て否定して行かないから、ある一定の範囲で完結してしまい、その宇宙が生命力をなくしてだんだん気持ち悪くなってきてやめてしまう。

 性欲はあって困るもんじゃないし、この直結した感じを10分作るぐらいなら、今の僕の指導力でもできる。ただ、そのあ感じを妨害するありとあらゆる障害を排除して、だんだん障害物が多い普通の状態に戻していくという練習法がとれないから、継続させるのが難しいだけだ。
 その継続させるために必要なのは、結局っ自分の世界観を好きなことをやって生活していけるほどに強く保つための欲だから、性欲が足りなくて、オナニーばっかりしていると自覚できるだろう。悪くて女にもてている奴は、性欲が外界に働きかけるほど十分に強いからああなっているのだし、女が欲しいがそうなっていない俺は、知恵を働かせて働きかけるほどに欲がないのが問題なのだ。女が手に入らなくても、自分の思い描いた方法で女が手に入る社会に少しでも近づいていくということは、毎日モデル級の美女と遊びまくっているよりもとても楽しいことだというのが俺の実感だ。そうすれば、何の努力もなく、全ての性欲が人に認められる形の表現にジョジョになってきたし、これからもそうだろう。

5年ぐらいで、そのような環境を全世界の人に届けられるだろうか?と考えている。
スポンサーサイト

2014/06/30 22:39 | 社会分析COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

えせ指導者をさっさとクビにしないと、いじめでしか組織が維持できなくなる。

結論 指導者として弟子がほしいが弟子を連れてくる能力がない人間はアドバイスを求められていないのにする人間だ。組織の中にそういった層が増えると、いじめを使ってでしか組織のまとまりを維持できなくなる。だからさっさとそいつらを追い出すべきだ。

道を追求する団体での 初心者 指導者 エンタープライズ使用者&開発者の3つにセグメント化する。


まず、指導者というのは、その教えがいっていることを一生懸命まなび、同じ考えを持つ人間をコピーする人間のことだ。熱心なファンもそれに当たる。 開発者とは、その教えを改造てその教えが達成したい目的をより達成する人間や使って自分が作りたいものを作る人間のことだ。一番金をとれるのは、この指導者たちで、彼らは、通ぶりたいがゆえに、初心者を排除する。いくら技量が高くて教えを忠実に守っていたとしても、他人に自分の考えを感染させなければ、ただの利害関係がない人間と同じだし、なまじ指導者に期待する分だけ、一般人よりも厳しい見方をする人間だということができる。だから、そういう人間は容赦なく切るべきだし、開発者でも別の目的を持っているならそれは敵た。彼らを定期的パージする必要がある。

 今の天皇は友だちがいなくて、東京のど真ん中に一人で暮らしている。指導者を直接管理はしていないが、間接的に管理して、間接的に管理するための使用者をパージしているのだ。

 指導者やその教えを守る人間はそれだけで教えに貢献していると思ってしまうが、自分の中で完結している文には、他人に全く利益を与えていないのだ。そういう人間がいるということを外部に示すことで利益が出る状態は新しいもの好きでやる気のある初心者が入ってくる極初期だけで、開発者がその教えを製品化して、give result 型の客を捕まえてこなきゃあそれ以上広がっては行かない。
特別なことをやっている自分が素晴らしいのでそれでもう十分だと思うのだ。それで止まっていてくれればいいのだが、人間同じ所でとどまることはできない。進まなきゃ後退するのが人間だというが、そうじゃないんだな。生きることが許されるのは、義務を果たしているからであって、義務を果たさないことが悪いということを学ぶために前進すると、対人能力が下がって後退しているようにみえる。

 指導するという目標ではなく、実生活で使う熱心なユーザーとして時々カスタマイズしたり、開発者に現場の声を届けるよきフィードバッカーになるか、それとも、開発者としてgive result 型の顧客に相対するのか?が問題だ。

 何でも応用の効くコアな思想であるほど、実用化する対象が多いので、最初のコアな思想を考えだした人間が研究開発に使用した領域で最初の開発者の評価を得るために、当初の指導者は活動しがちである。

 タグ通貨の思想を広めようと思ったら、問答無用で同じ言葉をしゃべる人間を増やす必要がある。考えが伝わっているか見るためには、自分がコピー相手に質問を投げかけると同じ動作をするか、ということで、同じ考えを共有しているのかを確かめる。自分の分身を作って営業するときにはとてもいい方法だ。この同調圧力を強化する方法がこれまでの営業力とは何たるか?だった。しかし、ザッポスのように、もっと根源的な行動様式レベルでの人間の判別が可能になったので、そのようなレベルで技術をみにつけても、同じような企業文化で営業力を高めることはできなくなったのだ。
 
 いくら教えに忠実でも、忠実になってきていると褒められなければ人の真似をしない報酬型の動機を示す人間は、熟達願望を強くするための強いフィードバックを必要とする人間を駆逐してしまう。成果報酬型の刺激がほしい褒めてやらないと育たない人間は、種火のような性質を持つのだから、さっさと燃やし尽くしてしまい、要らなくなった灰はさっさと捨てるのが良かろう。灰だらけのところに石炭をくべたり、電気じかけの種火を用意して灰を放っておけば、機械が痛む。猿真似をしてついてくる人間を切り捨てるのは、目的達成が正義だと思えるからであり、そう思えないなら、その教えを再優先にする時期ではないのだ。布教とは思想的侵略である。どの課題を最優先に取り組むかということについて、自分が思っている答えが一番正しく、やらない相手(思考の一部分も相手だ。全人格が相手ではない)を消滅させることをためらってはならない。

 誰かに評価されたことで素晴らしいと思わせたいときは、そういう看板を出す必要があるが、自分だけが認識できる目標に向かって前進するときには、役に立たない。優れたリーダーとは、どんな目的が設定されていても、協力できるときは協力させるように交渉するために、いろいろな目標を認識できるか、目標を植え付けることができる、リーダーとしては、この2つ以外に、目標を持たせずに、常に報酬を用意しておいて、少しの刺激で動かなくなったらポイ捨てして、また刺激が欲しくなったら参加してもらうという方式がある。人口を増やしておいて取り替え可能な労働者を増やす社会が目指している方向だ。

 そういうい人間を早く灰にしてしまう方法は、開発するための力(資本主義なら金)、布教の程度によるランク付け(布教をして獲得した信者が布教をするとリーダーに良い評価と肩書が与えることだ。
布教をするためにはそれぞれ布教をする人間が関心をもっている実用化の方向があるが、常に布教していく人間に対して、畏れずにそれが間違っているのか正しいのかフィードバックして、きついことを言って逃げた人間を背教者として弾圧することを恐れるな。もし弾圧された側が間違ったとしても、自分の教えたことが相手に引き継がれて成功していくだろう。だから自分の間違いを畏れずに、布教をする弟子と、どのように応用されていくことが良いのか、その教えが間違っていて、伝道者がその教えの違いを直せなかったとしても、それはリスクとして放置できるのか決断する必要がある。タグ通貨に限って言えば、僕がシステムを全部管理できるので問題ないが、宗教のように教えが伝道者ごとに違ってしまう管理者が複数いるシステムでは、伝道者ごとに違う教えを展開していると宣言し、友好団体と、明確な自分の後継者を区別するべきである。正統な団体が、一番流行してなくても良いが、いつか自分の考えが勝つと確信してその敗北を甘んじて受けなければ、よく普及はしないだろう。
 長期間居るという事実を良い評価にするのではなく、目的を達成しない

 フォロワーを削減してしまうと、自分の基盤が怪しくなるかもしれないけれども、実用化している部門が複数あれば問題ないだろう。部門同士が喧嘩をしたり、違った教えを広めるというのは、実用化しようとする人間とのコミュニケーション不足で、指導力不足だ。
 指導力がないなら、せっかくいいものを考案したと思うなら文章になっている文だけしか継承不可能である。営利化しても意味が無い。実用化する人間を、考えが違っても自分が好きなら応援し、少しでも間違って解釈されて広まるのがいやなら、もうそこでおしまいだ。

 教わった技術で新しく何かを作ったり、教えて金をとっている人間から金を取るのは、その技術が資本主義市場で評価される場合だけであって、それをぶち壊したいなら、指導者ブリタイ人間から金を搾り取る他ない。タグ通貨なら創始者の俺の集めてきた客にその思想を説くなら、ものすごく金を取るが、自分で客を集めてきて教えるなら、一切金を取らないということだ。

 新規開拓をしてくる奴に給料を払わないのに、自分の支配領域を任せれていることで、指導者のなかで認められたいという競争を起こし、空気を使って自ら教えを消化しない人間のレベルを引き上げていくのがいじめという手法である。寂しさのあまり、このシステムを理性的に把握せずに、友達が欲しくてそのシステム内にとどまり続ける人間を徹底的にいじめることがなければ、このシステムによって、正しい方向に導けない。
 女が少なければ、それを確保していれば全く問題がない。残りの男はそいつらがなびく方向に向かうから、それで方向付けられる。それに逆らう男はいじめグループの指導者には全く手に負えない。いじめている状態では、いじめっこを破壊するか、いじめられて導かれた方向に納得するかしないと、組織の外界を侵略することは不可能だ。いじめシステムでは、誰かが圧倒的な実力を獲得して、絶対的支配者としてもう一度他の組織を作りなおすことで世代交代が起こる。いじめによる継承システムにしろ、早い段階から誤解した状態の人にやってみさせる2つの方法は両方とも一長一短だ。だが、いじめシステムを維持するのには能力が居るし、もうひとつの方法に切り替えようと思っても、候補者がいなかったりする。

 いじめシステムは、スケールアウトしないし、一般人を連れてきてすぐ教えるレベルに達したら、あとはドンドン営業部隊か開発部隊に所属させるか、いじめシステムで抜け出すかを選択させないと、みんな初心者がいじめシステムに入る必要があるので、新しく入った人間が続かない。それ以上スケールしたければぼったくりをして人減らしをする以外なにも解決策はない。

独りの人間がいじめシステムと任せていくシステムを維持するためには、後者のフィードバックにほとんど全能力を投入し、前者は後者を管理するための力を上納するかしないかで切るほか方法がない。要するに、自分が思っているとおりに開発しない人間にはフィードバックもしないし、金をいくら持ってくるかで親密さを対外的にアピールできるかを決める必要がある。情実で友人を作ることが許されない、王族のような生活を強いられるのだ。そのような我慢ができないなら、論理的に話し合う力を増やすしかないが、SRNS以外では無理だな。

弟子を連れてくる能力がない指導者を目指している人間をいじめを使って管理して、それを辞めたいなら、まず、開発者に金などの方法でパワーを上納できない人間を選別して親しくせず、人格否定をするようなフィードバックを行う。
 その次に、パワーを上納することによるランク付けを行い、残ったゴミを吹き飛ばす。

 あとは、残った開発者とか、営業力のある人間とうまくコミュニケーションをとって、客を増やしていく。
それ以外に勝つ道はない。






2014/06/27 23:49 | 社会分析COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

渋谷駅での児童虐待


 まず、子供はここから家に帰るのが嫌だが、母親に対して普通ぐらいの愛着を抱いている。ここで母親が子供に対して要求していることは2つ。1泣くのをやめることと 2帰ることだ。
 1のほうが本能レベルに近く 2が遠い。
 2について理性レベルでいうことを聞かせている時に、他の理性レベルの要求を増やすと、既に出来かかっていることができなくなってしまう。別レベルの問題について取り組まさせればなおさらだ。

 この場合、2ができて10秒たったら、1を実行できていないという理由で嫌気刺激を与えて 2の習熟を否定しているので、子供が本能レベルで混乱している。この種の人間が備わっている学習行動を遺伝的に信頼するべき対象とされている人間に壊されるのは非常に精神的に負担がかかる。

 1について、この場で否定するのは適切で無いが、なんでこんな行動に出たのかを考えてみると、泣いていることなどは世間に歓迎されないし、泣かせている親がみっともないと無条件で判断されるから、取り繕いたくていやいややったのだと思う。その証拠に、軸足に体重を載せたまま頭を蹴って、床に倒してダメージを与えるというやり方に、非常に慣れており、子供が自分に対して持った愛情にしたがって起こった後に近づいてくるのをうまく計算して蹴っている。
 本当に、自分の存在をかけて暴力をふるうなら、軸足に体重を残したりなんかしないし、より精密に打撃を加えられる手でやるだろう。

 この動画を撮っている人間は、暴力をやめさせたと思っているが、母親にとっては、「暴力をふるうな」と声をかけられるまでは、自分に対して否定的な評価をする一般人だと思うので、そこから逃げるために、暴力で泣くのをやめさせる方向に圧力をかけたのだと俺は解釈する。最近、父親が子供を餓死させた問題も、世間体さえ木にしなければ、父親は息子を助けていただろう。

 世間からの評価は時空の一点で確定するのではないと、心の底から思っていればこのような反応をすることもなかっただろう。

 暴力をふるうことを批判している奴は、振るわなかった時のコストを誰が支払うのか考えていないし、仕方がないと主張する奴は間違っていた時の評価を伝達する方法を改善することもないだろう。
 
 俺は、相手を叱るときには全力で集中して、後からフィードバックがもらえる評価システムのみがこの問題を解決すると考えている。

 生物は、たんぽぽや魚みたいにたくさん生むものと、人間やパンダみたいにあまり産まない生物がいる。それに、人間はすべての生物の中で、一番多様性がある。人間にも、たくさん産んでバタバタ死ぬ家庭や、その逆が全く共存していて良いと私は考えている。子供に危ない遊びをやらせて、たまたま死んだだけでなぜ親がそこまで責められなければいけないのか?帰りたくない子供を放置してなぜ悪いのか?
 俺は、3歳ぐらいで言葉もかなりしゃべり、かなり早くから本も読んで、電車の乗り方ぐらい知っていたので、この動画の状態なら、おいて帰ってくれたほうがとてもありがたかっただろう。なんでそれをやると親が絶対に良くないと攻撃されるのかがよくわからない。子供も大人もなるようにしかならない。やりたいように生きることを応援してなぜ悪いのか?他人に迷惑をかけずに短く太く生きるのは、生ごみのようになって国に菅井r突いて生きるより、よっぽど良い生き方である。
 この国の問題は少子高齢化なのではない。死にたい人間を無意味に生かし、それに疲れて、行きたい人間を生かさない。制度で篩をかければ、意図した結果が生まれると考えているのである。子供が少なくなっても、高齢者が多くなっても、生きたい人間が自力で生きているなら何ら問題がない。死にたいという弱者、行きたいという弱者の声を拾い上げるためには、すべての評価に通貨としての昨日を与えるという方向以外に完璧な解決策はない。

2014/06/20 22:37 | 社会分析COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

自信がないと、欲しくもない周りが欲しがっている評価を求める

http://bylines.news.yahoo.co.jp/mizushimahiroaki/20140612-00036301/
この若者たちは自己肯定感が足りない。
他人を見下すことで得られる快感が、自分が存在しているだけで素晴らしく、自分おやりたいことを周りから評価されなくてもやっているだけで素晴らしいと認められてこなかったのだ。そして彼らは自分の価値観を相手に理解してもらう喜びではなく、他人の作った価値観の上で高く評価され褒めてもらうことを、自分の意志によらずに強制されたのだ。
そうでなければこんなに自信のない発現が飛び出すわけがないだろう。

 すごいかすごくないかなどとそんなあやふやなことではなく、言葉で聞くべきなのは論理的な説明が求められる問題である。
 だからこの集団は仲間ではないので、互いに互いが独自で持つ価値観を認め合わないであろう。

 そんな集団は互いに良い評価を受けないというリスクを犯して独自の考え方を披露することがないので、創造力がない。したがって、良い技術作品を作らないのは明らかである。
 このような人間は、多様な価値観を全く認めないので、自分たちを肯定してくれる評価基準以外を認めない。したがって不遜になりやすい。

 こういう集団はこの行動を持って、他人を見下していると断定してしまうと、断定したがわが論理的でないがゆえに、負けと認定されるだろう。故に、今回の事例については、自信を与え、増長している点は論理で斬るべきだ。

 ここを、相手が増長していると断定することは、彼らが抱えている苦しみを分析する力がないと自らいっていることなので、この記事を書いた人間はこの記事を書くべきではなかった。

 他の評価を認めないという論理矛盾を起こしている時点で増長していると指摘するべきだった。テレビ局に採用されるほどの人間であるから、ほとんどありえないが、弱気なだけの人間かもしれないのだ。
 相手を論理的に粉砕するためには、ここでこちらがボロを出すのは得策ではない、逃げ場を与えないところまで惹きつけて証拠を掴んで相手の人間性を全て否定するのが、俺のおおmっている理想の論破である。

2014/06/12 22:54 | 社会分析COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

いじめられて孤独なのは、正義を実行しながら答えに近づいているからだ。

今日、屋根の上で稽古をしていると、隣の人に、
「最近あなたはすごい変になったね。昔はいい子だったのに。お母さんの暴力のせいだね。毎日鳴き声しか聞こえなかった。駅でこうもり傘で友達をつついていたのも、そのせいだ。やり返すのなら友達に当たるのではなく親にやり返せ。」 と言われた。俺は生まれてから、一度も先に人に暴力を振るったことなどないし、親とは、刑事告訴するのか俺に無料で家を永遠に使わせ、食事を提供するのかどちらか選ばせ、親は後者を選んだ。そして今現在も、その子と公開させ、最大限の苦痛を与えるために毎日コードを書いている。
 その方は、最近俺がその方の家の方に向いて稽古をするのが気に入らないらしく、騒音を立て嫌がらせをしてくるが、俺はお構いなしにやりまくっているという人で、生まれた時からの知り合いだ。

 俺は生まれて初めて、自分の受けた児童虐待を人に評価されたのだが、それは、毎日泣き叫び苦闘をした日々だったのだろうと改めて思った。そして、今現在の俺が、相手に復讐することを絶対に諦めず、負の感情から逃げることもせず、まっすぐに生きてこられたのは奇跡だと思う。ポジティブシンキングや、いじめられた自分が悪かった、復讐は無意味だなどと逃げもせず、ひたすら真っすぐに妥協せずに誰しもいけたらいいが、この技術を人に伝えるのは難しい。
 僕は楽しんで人を引きつけるということについては全く不得意でもっとうまくやる余地もあったとは思う。快感と不快感両方の感情をバランスよく使う中庸の思想と、倫理を激しく追求することと、ひたすら自由にイップ校に努力する方法とは、全く違う互いに矛盾しない概念だとつくづく思う。
 今の時代は、極大観点から行う倫理の追究がこの中では一番流行していないと思うが、俺はそれを主軸にしながら、自由の追究をやっている。一番世の中の流れに乗れるのは、自由の追究かつ方向性ではなく、進んだ距離を目的として、他人を巻き込む力を極小的な観点からの倫理の追究で補うパターンだ。極大的な観点からの倫理の追究とは、今世の中で一番の巨悪が何であるのかを定め、それを解決してから、次に小さい悪を解決するという方法。逆は、寄附をするなりしてて、身近な問題から解決して、その問題解決によって他の問題が大きくなろうとも知ったことではないという態度だ。

 そして今日はボーリング・フォー・コロンバインにも出てくるあの事件の犯人の友人が書いてくれた本を読んだ。
 そこでわかるのは、悪事をなしている人間の隣にいて、その人間だけを殺そうとしても殺せないような存在はそれだけで十分殺されるに足りるということだ。食中毒は大腸菌を探すとそれにいつもくっついているのですぐわかるが、大腸菌だけを活かして、毒を出す細菌だけを殺すことができないようなもんだ。集団の中から、集団に紛れて多くの人間が少しづつ一人に向かって攻撃すると、被害者が復習しようとするときには無関係の人間まで巻き込まないと手間がかかってしょうが無い。そして、傍観者というのは加害者に徒党を組んでいて安全であり、自分に攻撃の責任はないという無意味な安心感と自信を与える。組武器を使っていると発泡率が昔から高かったのと一緒の行動原理だ。赤信号みんなで渡れば怖くないだ。
 したがって、そばにいるだけの傍観者というのは、そばにいる人間が何かをしたら一緒に殺されるに値する。よって、弱者が正義を実行したいのであれば、孤独になる。全ての孤独ないじめられっ子は、自分が孤独であることを絶対に恥じてはならない。答えに愛され常にそれに引っ張られているがゆえに苦しいのだ。

2014/05/30 22:13 | 社会分析COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

 | BLOG TOP |  NEXT»»
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。
現在の閲覧者数: