プログラマーズ Live free ,Beyond limit 2013年12月

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救済思想は恨みと破壊の中間を目指すと洗練されやすい

紅蓮の弓矢という曲があります
http://www.youtube.com/watch?v=dv4nVRpNgZ0。
歌詞
―お前たちは唯喰われる餌か?否、我等は狩人だ!―
Seid Ihr das Essen?Nein,wir sind der Jger!


踏まれた花の 名前も知らずに
地に堕ちた鳥は 風を待ち詫びる

祈ったところで 何も変わらない
不本意な現状(いま)を変えるのは 戦う覚悟だ...

屍(しかばね)踏み越えて 進む意志を嗤(わら)う豚よ
家畜(かちく)の安寧(あんねい) 虚偽(きょぎ)の繁栄(はんえい)
死せる餓狼(がろう)の自由!を!

囚(とら)われた屈辱(くつじょく)は 反撃の嚆矢(こうし)だ
城壁の其の彼方 獲物を屠(ほふ)るイェーガー

迸(ほとばし)る衝動に その身を灼きながら
黄昏(たそがれ)に緋(ひ)を穿(うが)つ紅蓮(ぐれん)の弓矢


矢を番え(つがえ)追い駆ける 標的(やつ)は逃がさない
矢を放ち追い詰める 決して逃がさない
限界まで引き絞る はち切れそうな弦(つる)
標的(やつ)が息絶えるまで 何度でも放つ

獲物を殺すのは凶器(道具)でも技術でもない
研ぎ澄まされたお前自身の殺意だ

Wir sind die Jäger(ヴィー ズィンディーイェーガーそれらの食事(である)、我らは狩人)焔のように熱く
ああ Wir sind die Jäger 氷のように冷ややかに
Wir sind die Jäger 己を矢にこめて
ああ Wir sind die Jäger 全てを貫いていけ

何かを変えることができるのは 何かを捨てることができるもの
何一つ危険性(リスク)など背負わないままで 何かが叶う等......

暗愚(あんぐ)の想定 唯(ただ)の幻影
今は無謀な勇気も...

自由の尖兵(せんぺい)賭けの攻勢
奔る(はしる)奴隷に勝利を!

架せられた不条理は 進撃の嚆矢(こうし)だ
奪われた其の地平に 自由(せかい)を望むあの日の少年(エレーン)
とめどなき殺意(しょうどう)にその身を侵(おか)されながら
宵闇(よいやみ)に紫を運ぶ冥府(めいふ)の弓矢!


僕は、祈りこそが戦いであり、祈りは戦いのごとくするほうが楽しいので、全部肯定するわけではないが、
破壊衝動はいつもこれぐらいもっている。だが、恨みとは回の感情は全く違うものだとつくづく思う。
恨みとは、ある仁義正義が適用されるように適用しにくい状況変化を否定して全く違う二つの空間を連続してつなごうとする意志が、苦痛により引き起こされた感情のことを言うが、破壊は、連続性を放棄することも含む、もっと広義の状況変化を望む意思のことを言う、
 どちらかといえばこの歌詞では、破壊についてのべており、もっとドロドロとした仁義を引きずって世界を拡大するという中央銀行を監督するために必要な意思すなわち恨みと啓蒙についてはあまり述べていない。
 恨みの感情というのは、自分たちの表現したい正義を掲げて、それを受け入れるといった相手がその契約を破ることによって、期待が裏切られ、それによって相手を破壊せずにもう一度教化して転向(コンバート)させるという意識の変化を経なければ引き起こされないのだ。
 恨みがどうして体に悪いのかというと、その正義が実行されるのが当然で、自分が引きこもってさえいればいつかはその正義が実行されると他力本願になってしまい、自分の正義を相手からの批判によって洗練する機会をシャットアウトしてしまうのだ。自分の正義を絶対だと思えないのなら、絶えず相手から批判されて自分が傷つくこともあるだろうが、それを恐れて正義を実行しないのであれば、いつか今存在する既存の正義と自分の中にある正義の差に押しつぶされてしまう。自分の中にある正義はそこにしかないもので、表現しなければなくなる。
 日本人は自らの絶対の正義を他人に受け入れさせることを嫌うが、もし相手が無反応で受け入れないのならば、相手がどうなろうとも自分の正義を実行するべきだ。そのときに、間違っていて自分が破壊されたとしても、批判されず何が間違いかわからなければさらに強く巧みに相手に自らの正義をぶつけるべきだ。
 もちろん批判を受け入れる練習も必要だが、それが限界に達したのならば、攻撃しかない。

 何が何でも自分が正しく、いかに相手が正しくないのかを全力で表現することを制限すれば、恨みの感情が育たず、ただ単に現状否定をして自分が快感を得られる状態に前後と全く脈絡がない現状を作り替える破壊のみが行われる。
 悟りというものは前後全く脈絡がないものであると同時に、物語がなければ生命が宿らず、人間のものではない。全く自由な空間では、どちらにどう進んでいいのかわからないし、あちらとこちらの区別がなければ、遠くへ行くこともできず、違うということも認識できない。しかしそれでは、すべてと一体化したダダの大いなる存在があるだけだ。どんなものがその中に含まれているかを確かめるためには、それを分割して整理しなければならない。

 分割して緩やかにつなげ何があるのか把握しやすくなれば、こちらで失敗したら今度は別の方法でやったらうまくいったという試行錯誤で成功する確率が高くなっていく。それが救済思想だ。だから、破壊だけで、その人にとって不快な状況を心地よい状況にかえるだけでは、まったく自信が付かない。そうではなくて、一つの生命のあらゆるインスピレーションに合致する規則だったあらゆる脈絡のないものとのつながりを あらゆる地点に用意することを推進する、正義を実行したいと思ったときに発生する二つの感情も常に全力で発せられることが望ましい。
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2013/12/31 22:01 | 社会分析COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

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