プログラマーズ Live free ,Beyond limit 2014年05月

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いじめられて孤独なのは、正義を実行しながら答えに近づいているからだ。

今日、屋根の上で稽古をしていると、隣の人に、
「最近あなたはすごい変になったね。昔はいい子だったのに。お母さんの暴力のせいだね。毎日鳴き声しか聞こえなかった。駅でこうもり傘で友達をつついていたのも、そのせいだ。やり返すのなら友達に当たるのではなく親にやり返せ。」 と言われた。俺は生まれてから、一度も先に人に暴力を振るったことなどないし、親とは、刑事告訴するのか俺に無料で家を永遠に使わせ、食事を提供するのかどちらか選ばせ、親は後者を選んだ。そして今現在も、その子と公開させ、最大限の苦痛を与えるために毎日コードを書いている。
 その方は、最近俺がその方の家の方に向いて稽古をするのが気に入らないらしく、騒音を立て嫌がらせをしてくるが、俺はお構いなしにやりまくっているという人で、生まれた時からの知り合いだ。

 俺は生まれて初めて、自分の受けた児童虐待を人に評価されたのだが、それは、毎日泣き叫び苦闘をした日々だったのだろうと改めて思った。そして、今現在の俺が、相手に復讐することを絶対に諦めず、負の感情から逃げることもせず、まっすぐに生きてこられたのは奇跡だと思う。ポジティブシンキングや、いじめられた自分が悪かった、復讐は無意味だなどと逃げもせず、ひたすら真っすぐに妥協せずに誰しもいけたらいいが、この技術を人に伝えるのは難しい。
 僕は楽しんで人を引きつけるということについては全く不得意でもっとうまくやる余地もあったとは思う。快感と不快感両方の感情をバランスよく使う中庸の思想と、倫理を激しく追求することと、ひたすら自由にイップ校に努力する方法とは、全く違う互いに矛盾しない概念だとつくづく思う。
 今の時代は、極大観点から行う倫理の追究がこの中では一番流行していないと思うが、俺はそれを主軸にしながら、自由の追究をやっている。一番世の中の流れに乗れるのは、自由の追究かつ方向性ではなく、進んだ距離を目的として、他人を巻き込む力を極小的な観点からの倫理の追究で補うパターンだ。極大的な観点からの倫理の追究とは、今世の中で一番の巨悪が何であるのかを定め、それを解決してから、次に小さい悪を解決するという方法。逆は、寄附をするなりしてて、身近な問題から解決して、その問題解決によって他の問題が大きくなろうとも知ったことではないという態度だ。

 そして今日はボーリング・フォー・コロンバインにも出てくるあの事件の犯人の友人が書いてくれた本を読んだ。
 そこでわかるのは、悪事をなしている人間の隣にいて、その人間だけを殺そうとしても殺せないような存在はそれだけで十分殺されるに足りるということだ。食中毒は大腸菌を探すとそれにいつもくっついているのですぐわかるが、大腸菌だけを活かして、毒を出す細菌だけを殺すことができないようなもんだ。集団の中から、集団に紛れて多くの人間が少しづつ一人に向かって攻撃すると、被害者が復習しようとするときには無関係の人間まで巻き込まないと手間がかかってしょうが無い。そして、傍観者というのは加害者に徒党を組んでいて安全であり、自分に攻撃の責任はないという無意味な安心感と自信を与える。組武器を使っていると発泡率が昔から高かったのと一緒の行動原理だ。赤信号みんなで渡れば怖くないだ。
 したがって、そばにいるだけの傍観者というのは、そばにいる人間が何かをしたら一緒に殺されるに値する。よって、弱者が正義を実行したいのであれば、孤独になる。全ての孤独ないじめられっ子は、自分が孤独であることを絶対に恥じてはならない。答えに愛され常にそれに引っ張られているがゆえに苦しいのだ。

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2014/05/30 22:13 | 社会分析COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

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