プログラマーズ Live free ,Beyond limit 2014年06月

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オナニーばっかりしているのは、性欲が知恵を動かすほど強くないからだ。

限界までやってしっかり休み、また限界までやる。
ヤる前はいろいろああしようこうしようと思うものだが、そんなふうにうまく行かず、休むときは、起きていた時にできるようになったことが当たり前になって定着するように、瞑想していくのがよろしい。
 旨を広げ呼吸が楽になったら、それにずっと注目してそれが当たり前になるまで十分楽しむ。それが当たり雨になって意識的集中して楽しむことがなくなったのなら、その習慣はていty句しているが、楽しむことを途中でやめてしまえばもう一度努力し無くてはならない。だから休むときは、起きて動いている時に得られた最高の状態を維持るるようにじっくりと休み続けることが必要で、中断しに来るありとあらゆる電話や来客などの障害を無視する必要がある。自分は今個々にある楽しさを楽しむために居るのだから、それに集中するべきだ。個々にある楽しさをつかむという感覚が、周りに合わせて動くということを学ばせてくれる。いろいろな物事にあわせていては、自分の表現する振動が強まっていかない。

 ありとあらゆる小宇宙は、固有の振動を持っており、それを思ったとおりに表現するのが個性だ。だから、それを作ることを諦めて周りに合わせるのは、創造という根源的な喜びを忘れる、非人間的行為だ。だから、休むときは自分のやりたいことがひたすら周りに広がって行くことによって、いくら周りからどんな振動が来ても受け入れることができる。休むっていうのは、自分の目的が良いか悪いかとかを思い悩むのではなく、自分の目標が実現していく流れに身を任せながら、自然に眠りに落ちることなんだと思っている。

僕は、プログラミングもするし、自然言語も書く。ウェブアプリを作るためには、プログラミングする必要があるが、しているからといって前進しているわけじゃない。何かをしていなければ、目的が達成されないなどと言えないと言い切れるかどうかが自分の精神を守れるかどうかだ。他人には努力していないように見えても、自分が今目標に向かって突き進む最も楽しい方法だと思うなら、試しながら変わっていけばよろしい。

 なんにも考えないことが良いというのではない。理性も本能も全て目標に向かって一直線につながって、槍のように伸びていっている現実を認識し続けるのだ。理性の働きも性欲も全て必要だ。この世への執着も全て肯定し、自らの願いがバラバラ担っている状態を自分で葛藤して、理論的整合性も、感情的整合性も全て持たせて存在していくことだ。

  ありとあらゆる憎しみは、その問題を解決しなけれが気がすまないという思い出あり、その状態に陥った人間を助けるための問題だから、その感情を押し殺し、その記憶を忘れることは、再びその状態に陥った時にもう一度居間と同じ勘定を持つ可能性があるということだ。だから絶対に忘れてはいけない。成長したから忘れたなどという言い訳も許されない。未熟な自分が解決できなければダメなのだ。その時の自分を観察して解決するのであって、今の自分が解決していても、全く問題解決にならない。恨みというのは過去の自分が今音自分に向かって送ってくれる光のようなものだから、それを感じることができるということは、困っている人を助けられる良い道具を作るための顧客調査ができるということだ。

俺も、何事もただ我慢すればいいと思っていた。筋肉痛を我慢して稽古すれば筋力がついて動けるようになるが、筋肉痛にならない動きを学習することはできない。それに、やりたいことをやれる筋力がつかないのは、日頃の過ごし方 座り方、歩き方が間違っているからだ。いつでも、正立八字立ちのように座って立ち、、キーボードも寄りかかって打たなければ手の筋力も自然につく。
 一度良い姿勢をとっても、疲れて添えrをやめようと思った時に、なぜそれをやめたjy様態が気持ちいいと思っているのかよく考えよう。それは、今元気がある場所とない場所に差があり、頭を支えて何かを見る意思があるから、なぜ見ることを体が拒否しているのか考えることをやめているので、理性で諦めてしまう理由が把握できない。俺は、その時は寝っ転がって考える力が復活するまで待つか、目の前の画面から目を外して遠くを見るか目をつぶるかして、辞めたくなった原因を探すことにしている。
 

 性欲がありすぎて、まともに考えることもできないと悩んでいる人は多いと思うが、俺に女はいないいのはなぜかと考え続けて解決した。
 俺は、自分の取り組んでいる課題が今の生物にとって最も優先sなれるべき課題だから、そのためには、女という師b源も無限に手に入らねければおかしいが、なんでてにはいらないかと考え続けた。
 結局、性欲というのは、自分のエネルギーの一つであり、理性的な判断と直結すると、センスがよくなるので、姿勢を良くして、クンダリーニヨガとかにある、ダンテス・ダイジの本にも書いてある、やると危ない瞑想法で頭と下腹部を直結させ、その間でエネルギーを回してバカにならないように、どんなソフトウェアを作りたいのか?使っている人間がどのような生活をしているのか?ということを常に文字や絵にして表現して、だれでも見ることができるように公開し続けている。

 悪魔的とされてあまり手を付ける人がいないが、スナッフフィルムやイラクでの戦闘、日本の児童虐待の話しなど、いくらでもむごたらしいものは転がっている。大周天や小周天といった、ぐるぐる体の中で気を操作する練習法はなんで気持ち悪くなってしまう人が多いのかというと、悪魔的存在と他人から言われると、ほんとうに悪魔だと思ってしまい、それは切り捨てた上で、自分だけ不老長寿になるとかを考えるから、自分の作るものが生み出す楽しさのバリエーションが少なくなってしまう。相互不理解から生まれるそういった現象は、自分の理解力の限界を見つけるいい題材なのだから、それを自分の創造物に取り入れなければ、より完全なものが作れない。自分の中でイメージを回すのではなくて、自分の嫌いなものの存在を認めた上で、それを全て否定して行かないから、ある一定の範囲で完結してしまい、その宇宙が生命力をなくしてだんだん気持ち悪くなってきてやめてしまう。

 性欲はあって困るもんじゃないし、この直結した感じを10分作るぐらいなら、今の僕の指導力でもできる。ただ、そのあ感じを妨害するありとあらゆる障害を排除して、だんだん障害物が多い普通の状態に戻していくという練習法がとれないから、継続させるのが難しいだけだ。
 その継続させるために必要なのは、結局っ自分の世界観を好きなことをやって生活していけるほどに強く保つための欲だから、性欲が足りなくて、オナニーばっかりしていると自覚できるだろう。悪くて女にもてている奴は、性欲が外界に働きかけるほど十分に強いからああなっているのだし、女が欲しいがそうなっていない俺は、知恵を働かせて働きかけるほどに欲がないのが問題なのだ。女が手に入らなくても、自分の思い描いた方法で女が手に入る社会に少しでも近づいていくということは、毎日モデル級の美女と遊びまくっているよりもとても楽しいことだというのが俺の実感だ。そうすれば、何の努力もなく、全ての性欲が人に認められる形の表現にジョジョになってきたし、これからもそうだろう。

5年ぐらいで、そのような環境を全世界の人に届けられるだろうか?と考えている。
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2014/06/30 22:39 | 社会分析COMMENT(0)TRACKBACK(0)  

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